自由からの逃走

自由とは 備忘録

人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。
人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

私が証明しようとしたように、もし愛が、いかに生きるべきかと言う問題にたいする唯一の健全で満足のゆく答えだとしたら、愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。
実際、愛について語ることは「説教」ではない。
その理由は簡単だ。
愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。
・・・愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

【自由からの逃走】 (大意)
− 人間は孤立することをもっとも怖れている。
− 人間は、(意識の上では)自らの意思で動いていると信じ、自らの意思で“積極的な自由”を求めているものと信じている。
− だが人間は、自由になればなるほど、心の底では耐えがたい“孤独感”や“無力感”に脅かされることになる。
− そして孤立することの絶望的な恐怖から逃れるため、退行的な逃避のメカニズムが働き、“積極的な自由”を求めることより、自由から逃れることを人間は選択するのである。

他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。
他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。
訳字「自由」は幕府外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎が案出したのが最初
福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容

日本国憲法には以下のような自由権が謳われている。
精神的自由
思想・良心の自由
信教の自由
学問の自由
集会の自由
結社の自由
表現の自由
経済的自由
居住移転の自由
職業選択の自由
外国移住・国籍離脱の自由
人身の自由
奴隷的拘束・苦役からの自由
令状なき不当な勾留など、正当な法的手続を踏まない不当な拘束からの自由
勾留拘束に当たっての法定手続の保障
自由権の濫用はしてはならない(憲法12条)
権利の濫用はこれを許さない(民法1条3項=罰則の適用)。

イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において自然の因果系列とは独立にあらたな系列を始める絶対的開始の能力として超越論的自由を論じた。
戦前に活躍した唯物論哲学者戸坂潤は著書「日本イデオロギー論」中、「文学的自由主義の特質」において、自由主義についての考察と絡めて「自由についての問題は哲学的でも文学的でもなく経済的な範疇から生じた」と指摘した。


一般的には,心のままであること,あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。哲学上は,人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく,それ以外の対象をも選びうる能力をいう。この場合,自由は選択する意志の自由であり,意志とはその本質上「自由意志」 liberum arbitriumにほかならない。古代ギリシアでは,アリストテレスが選択の自由を主張し,中世スコラ哲学においては,神の恩恵ないし予定に対する人間の自由の存否という形で自由が問われた (→恩恵論争 ) 。近代にいたってこの問題は「自由と必然」という対立概念として,とりわけドイツ観念論哲学によって定式化された。カントは自由の理念を実践理性の理念として積極的に認め,普遍的法則となるように行為しようとする人間の自律的な意志を倫理学の基礎とした。以後,現代にいたるまで,人間の行為において自由意志は一層重要な位置を与えられながらも,一方で無条件に外的な状況や強制から自由な自律性を認めることには困難があることが自覚されており,実存主義の立場はそれに対する一つの解決でもある

 フロムについてはこれくらいにして、次にバーリンの論文「二つの自由概念」(『自由論』に収録)にあるあまりにも有名な考察をみてみよう。

 バーリンは、「自由」の定義は二百以上あるとしつつ、歴史的に最も影響力を持ってきたものとして、総括する形で二つの「自由」の概念を挙げている。一つは「消極的自由」であり、もう一つは「積極的自由」である。前者は「どこまで支配されるのか」という問題にかかわるものであり、後者は「誰によって支配されるか」という問題にかかわるものとなる。

 「消極的自由」の方は、「他人の支配・干渉からの自由」にあたるが、つまり「避ける」ことがメインであるようなものである(その意味で「消極的」である)。これは「範囲」の問題になるが、端的に支配・干渉されない範囲が広いほど自由度も高まると言える。もっとも、自分がしようとも思っていなかったことをする可能性を妨げられても「干渉」とは言わないから、あくまでも自分が行動しようと思う範囲での話である。

 次に「積極的自由」だが、これは、「自由」のもう一つの主要な意味である「自己決定」の方にかかわるものである。「自由」と言えば、他者から干渉を受けないと同時に「自分で決める」というのも必要だろう。しかし重要なのは、これは先ほどの「支配・干渉を避ける」というものとは衝突するということである。つまりバーリンは、同じく「自由」と呼ばれていても、この二つは両立し得ないと言っているのである。

 もちろん、本来の意味からして「自分が自分を支配する」のであれば、何の問題もないと思える。しかし、自分一人で完結する目的と行動などそう多くはない。したがって、実際には積極的自由は、他者とかかわる集団的なレベルにまで展開されることになる。しかし、そうして自己の理想を政治的な次元で実現しようとすれば、実はそれによって自己あるいは他者の「消極的自由」を侵さずにはいられなくなるのである。

 要するに、自己を支配するという、個人のレベルにとどまっていれば何の問題もないように見えるある種の「欲求」は、まさにそれを実現するべくして、自己の支配を自己以外へと委ねたり、あるいは他者への支配を正当化することへとつながるのである。したがってバーリンは、どちらも根源的価値であるとしながらも、最終的にはより究極的であるような「消極的自由」を、「積極的自由」の侵害から守るべきであるとしている。

 それなら、つまるところ「自由」の基本は「自分で決められる」ということであろう。そう言ってよければ、これが最も一般化された「自由」の意味である。その意味では、「自由」は「状態」というよりも「メタ状態」であると理解することも可能だろう。つまり、「自分がどのような状態でいるかを自分で決められる状態」である。いずれにしても、「自由」とは絶えざる実践の中でダイナミックに現れたり消えたりするものであり、それは常に自分の問題なのである。

自由⇔必然

生き物の即物性

 僕が生物と影について考えるようになったきっかけは、東日本を襲った大地震であり、津波であった。あの大災害を自ら体験し、人間が大自然の圧倒的な力の前では、河原の石の影に身を潜める虫けらと同類であることを、津波が思い知らせてくれたのである。まったく生き物以上でも、生き物以下でもないことを突き付けられた。谷崎が関東大震災(1923)という10万人が亡くなった未曽有の大災害のあとに、「陰影礼賛」を書いたのは例外ではない。いつの時代にも、大災害は人間に事実をつきつける。小さく弱い生き物でしかないという事実をつきつけるのである。同じようにして、僕自身が3.11のあとに設計した「新国立競技場」では、影がテーマとなった。庇のない箱は作りたくなかった。モダニズム建築では、庇は悪人であり、抽象的な白い箱が正義であった。それが工業化時代の、人間が生物であることを忘れた時代の正義だったのである。庇を深く出して、いかにしたら大きな影を作れるかを考えた。新しいスタジアムは、明治神宮という東京でもっとも大きな神社の庭の一部に建設される。大きな影を媒介として、神社の森の中に、建築を融かしたいと考えた。大きな影の中に、建築をひそめ、僕自身の身体をひそめたいと願った。
 そのように読んでくると、谷崎がこの本の最後で、なぜトイレの話、一見高尚な日本文化とは対極的なとも感じられる下世話な「シモネタ」が登場するかということの理由が、はじめて納得できた。谷崎は陰影の美の奥に、生き物の即物性を見て、これが高尚な文化論というより、ナマ身の生き物を扱った即物的な生態論であることを読者に伝えたかったのである。だから生き物の最も生き物的エピソードともいえる排泄の話を付け加えたのである。そのことにこめた、谷崎の現代性とユーモアに、あらためて僕は驚嘆した。

中庸的な時代に

何はともあれ先進国は満たせ、皆贅沢であり、ある中庸を目指して時代は動いているように感じる。
反社会的なポーズも、真ん中から観察すれば、さほど変わらない。
こんな時代の中、時代の先駆者建築家の動きは難しい。
時代を推し進める大きなジェスチャーの建築を設計しても、中央の人々は醒めているし、中庸的なデザインを提示しても、物足りない。
どのらの要素を入り込める状況を生成する必要があるのか否か。一見推進派デザインだが、時間が経つにつれ、中庸派デザインにとりこまれるのか?逆か否か。
中庸→先進の動きは現実的か、あればとても面白い
推進派デザインとは何か。
その状況を加速させるようなデザイン。アクティブになる仕掛け、情景

自由な建築

都市と建築との関係を最優先し、オブジェクト的な建築を排除する建築家が多々見受けられる。一見、今日的な建築家像として最もだと納得する一方で、そのように建築はこうあるべきだと決め付けること自体に違和感を感じる。
建築は自由でいいのではないか。
前提として、マニフェストを掲げることが窮屈だ。
自由を損なうことが、あらゆる関係を結ぶことに支障が生じることはないのか?
誰よりも自由に、どんな建築より自由な状況を、一定時間の中で保ち続けたいと考えている。

フランク・ゲーリーのマニフェスト

まずアイデアが浮かぶ。しょうもないけど気に入る。模型をつくって嫌いになるまで見続けて、それから違う模型をつくることで、最初のしょうもないアイデアを別の見方でみる。するとまた気に入る。でもその気持ちは続かない。部分的に大嫌いになって、再び違う模型をつくってみると、全然違うけど気に入る。眺めているうちに、すぐに嫌いになる。直しているうちに新しいアイデアが浮かんで、そっちの方が気に入るけど、また嫌いになる。でもまんざらでもない。
どうするか? そう、また模型をつくって、次から次へとつくる。模型を保管するだけでも膨大な費用がかかる。でもどんどん続ける。次から次へと進めるうちに、ほら見ろ、最高傑作だ。
輝かしく、安上がりで、今までに見たことがないものだ。だから誰も気に入らない。

悔しくて死にたくなる。ところが、神様がメッセンジャーを送り込んで皆に催眠術をかけるので、皆気に入る。そしてアイデアを盗もうとする。模型も盗んで行こうとする。頭脳や魂まで持って行こうとする。でも踏ん張って、絶対にくれてやらない。
やりたいのは、新しいアイデアを生むことだけ。たった一人で新しい模型をつくり続けたい。保管するのに膨大な金がかかるので、こんなことをしていると模型の倉庫代で破産する。
これは偉大な歴史。伝説でもあり本当のことなんだ。
この続きがどうなるかと言えば、皆が嫉妬し始める。嫉妬が彼らに努力するよう仕向けるならばいいけれど、大半は壊すためにがんばる。そこんとこが厄介。

つくりかた

技術を革新して 手を鍛える
生活を直視して 空想にふける
緻密に企て   偶然を呼び込む
限りを尽くし  社会に委ねる
信念を曲げず  自在に動く
そうやって
進歩を怠らず
経験を心に蓄え
作っていけば
良いのだと思う。